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韓国社会経済学会報告記

橋本努20060519

 

 

 2006519日(金曜日)、韓国のテグ(大邱)大学において「(韓国)社会経済学会」の国際コンファレンスが催された。光栄なことに、私もこの会議の報告者として招かれ、約2年ぶりに韓国を訪問する機会を得た。韓国のテグはすでに初夏であった。青葉が印象に残る今回の韓国滞在について、簡単に記しておきたい。

 

 

 韓国の「社会経済学会」は、主としてマルクス経済学に関する学会であり、いわば左派の牙城ともいえる学問母体である。今回はこの学会からの招待である。正確にいうと、資金を提供してくれたのはテグ大学であった。今年で生誕50周年を迎えるテグ大学は、国際学会の開催に場所と資金を提供するということで、それで社会経済学会はこの大学からの資金を得て、学会初の国際イベントを企画したのであった。

2年前にわたくしは、右派の「韓国ハイエク協会」から招かれたことがある。しかし今回は、左派からの招待である。どうも韓国の右派と左派は、互いに歩み寄っているのであろうか。従来のイデオロギー的視座は、韓国でもやはり通用しなくなってしまったようである。韓国のハイエク協会は、カール・ポパーのような介入主義者を歓迎していた。また反対に、韓国社会経済学会で活躍するHong教授は、ケンブリッジ・ジャーナルにハイエクとマルクスの関係を論じる論文などを寄せている。こうした動向をみると、少なくとも学問のフロンティアにおいては、右派/左派の図式が崩れているように思われる。ただし韓国では、人脈的には右派/左派の交流がなく、互いに会話すらしないということであった。

 なお興味深いことに、韓国のマルクス経済学研究は、1980年代における学生市民運動を経て、ようやく表舞台に登場したという経緯がある。例えば1988年、韓国における『資本論』の翻訳者Kim Soo-Haeng氏は、学生たちの自治運動によって、ソウル国立大学に招かれている。またその前年に、マルクス研究に関心をもつ学者たちが集まって、「社会経済学会」が発足している。「社会経済学会」は、日本でいうとマル経の「経済理論学会」に相当する学会である。しかしその歴史はまだ19年と浅く、メンバーの中心は40代の研究者たちであった。まだまだ若さに満ちあふれた学会であり、中核的なメンバーたちは年間5回の研究会を開いて、学問研究をすすめているとのことであった。アクティヴに活動している会員は約100名であるという。

 さて、今回の国際学会は、中国から三名、日本から三名、アメリカから一名の学者を招いて開催された。日本からは、京都大学の大西広先生、北海道大学の西部忠先生、そして小生が招かれた。今回の学会は、韓国の社会経済学会としては、はじめての国際企画ということで、いろいろと不慣れなこともあったのであろう。この企画について、私は約2か月前に知らされ、そして日程が決まったのは約1か月前であった。また、開催日の前日に、テグのInter-Burgoホテルに到着してみると、私の名前で予約が入っておらず、結局分かったことは、西部さんと相部屋で滞在するということであった。学会の会場では、スケジュール表がパンフレットとして印刷されており、しかも私の報告原稿はすでに、りっぱな「学会誌報告集」に収録されて刊行されていた。加えて、報告者の発表にはそれぞれ、韓国人のコメンテイターがつくということで、私の発表には進化ゲーム論を研究している同世代の俊英、リュウ・トンミン(柳東民)氏が、内在的な質問をいろいろと投げかけてくれた。ゲーム理論の専門家と本格的な議論をするなどとは、私はまったく予期していなかったのであるが、おかげで私は多くの知的刺激を得ることができたように思う。(当日のスケジュールは、写真コーナーをご笑覧頂きたい。パンフレットの画像を載せている。)

 こうして、予期しないことがさまざまに起こると、逆に、「なんでもござれ」という愉快な気分になってきた。おかけで当日の私の発表は、かなりリラックスして話すことができたように思う。今回の発表内容は、私の研究人生のなかでも、思想的・理論的にはおそらく中核となるアイディアであっただろう。それをさらに英語で報告するということであったので、とてもチャレンジングな機会となった。私の報告内容を簡単に述べると、それはハイエクの自生的秩序論を「自生化主義」へと転換させて、さらに、自生化主義の二つの類型として、「ノモス秩序化」と「ピュシス秩序化」を対比させるというものであった。この3月から5月にいたるまで、私はこの単純化された二つの秩序類型論を思想的に展開することに夢中になっていた。今後は、このアイディアをさらに温めて、自分の思想的コアに据えていきたいと思っている。

 私の発表は、ハイエクの主題に基づくものであったが、西部さんが用意した発表もやはり、ハイエクに関するものであった。ハイエクをめぐって、お互いこの機会に集中して議論できたことは、掛替えのない経験になったように思う。西部さんは同僚であるとはいえ、大学ではなかなか議論する機会がない。ところが今回、韓国のテグに来て、お互いに英語で発表し、さらに夕食を共にして、それからバーに行き、3次会はカラオケに行って、ホテルに戻ると今度はベッドに横になったまま、朝の四時まで議論した。かなり濃密なコミュニケーションとなった次第である。

 翌日から私は帰路についたわけであるが、余った時間に、友人のサンゴンさんとユリさんにそれぞれお会いすることができた。サンゴンさんとは2年ぶりの再会で、今回はテグのダウンタウンを歩き、古くから栄える薬令街を訪れた。ユリさんとは、じつに4年ぶりの再会。ニューヨークでお会いしてから、私は日本に戻り、彼女はサン・フランシスコ滞在を経て、昨年の暮れに韓国に戻ってきた。現在、ユリさんは両親と暮らしており、その地域はソウル市街から一時間以上離れた山間部にあって、緑に囲まれた理想郷であった。田舎暮らしであるとはいえ、その気品に満ちた生活に、私は大きな感動を覚えた。また近くには芸術家のキムさんの家があって、かれはソローの『森の生活』を読んで感激し、それでこの地に移り住んだという。この土地の魅力はまさに、ソローの理想を体現しているようにも思われた。少し歩くと登山口があり、一時間程度で登頂できるような小さな山を見上げることができる。また登山口の近くには小さな湖があって、そこで釣りもできるということであった。

 最後の夜は前回の滞在と同様に、インチョン空港近くの新しい街にある宿に寝床を得た。街といっても、中心に歓楽街とホテルがすこしあって、その他はほとんどすべて団地という新興のベッドタウンである。私は夜になって気温がほどよくなってから、団地街の全体を一時間半ほど散策してみることにした。すると、私の身体が妙にそのなかへ溶けこんでいくように感じられ、不思議な思いがこみ上げてきた。中心街の近くは15階建ての団地、そして奥のほうは3階建ての低層団地となっているが、その配置といい、建物のデザインといい、公共空間に置かれたオブジェといい、あるいは大きな公園といい、すべてが気の利いたセンスで構成されている。小学校や中学校も、煉瓦作りで気品がある。これだけのアメニティを実現した居住空間は、私の暮らす北海道には存在しないだろう。いやはや、韓国人が羨ましくなった次第である。いずれにせよ私は、幼少期を「たまプラーザ団地」という団地町で暮らしたので、こうした韓国の新しいベッドタウンに、幼少期に得た感受性を投影してしまったようである。

 最後になったが、今回の学会報告で私を招いていただいた二人の教授、延世大学のフーン・ホン教授とテグ大学のジェホン教授に、特別の感謝の言葉を述べたい。韓国人や中国人の学者とコミュニケーションするためにも、私は英語で情報発信することの大切さを痛感している。

 


Photo Korea 200605